女一人で海外出張: 私が帰る場所

2017年11月12日日曜日

私が帰る場所

 その橋は、一本の竹だった。

 そう。そこはインドネシア。河口のデルタ地帯に広がるマングローブ林。
 川の水の流れが、網目状の細い水路になり海に注ぐ。
 その水路には、竹が一本・・・渡されているだけだった。

 渡ろうとすると、揺れるんですわ・・・
 冗談じゃないくらいに。

 しかも、靴底に付いた泥のせいで、竹橋を渡ろうとすると、ツルツル滑るし・・・
 こりゃ、川に落ちたら流されて死ぬな・・と、思いましたよ。

 とりあえず、全員で目的地に着くのは諦め、年齢制限を超えた参与と、重量制限を超すインドネシア人の巨漢一名を、橋の手前にに残しました。そしたら、「俺もここに残りたい」と言うインドネシア人続出。

 そりゃそうでしょうとも。分かりますよ、その気持ち。私だって残りたいよっ!

 結局、私と、インドネシア人一名の、二人だけがその竹橋を渡ることになりました。

 揺れる竹に足をかけた時、ふっと、この土地の名の由来が頭をよぎりました。

 巨大なイリエワニと、
 巨大なホオジロザメが、
 この河口で決闘してたから、
 ついた地名だと、
 人は言う。
 
 まずいよね。明らかに、川に落ちたら、やつらの餌食だよね。

「・・・。ここに、今でも、ワニいるかな?」
「アダー!(いるよー!)」岸から一斉に返事が来ます。

「じゃあさ・・・サメって、いる?」
「アダー!バニャーック!(いるよー!いっぱい!)」岸から、陽気な返事が来ます。

 水路の中に潜んでいるワニがジャンプして、私に喰いつくイメージが浮かびます。
 ああ・・・鶏肉を使った、こんな見世物、何処かのワニ園でやってたっけ・・・
 死ぬのは嫌だ。喰われるのは嫌だ。と必死に念じ、対岸に渡り着きました。

「おお~Sabiさん凄いね!」👏👏👏
 木陰でいっぷくしている参与が拍手しました。
 まったく、見世物じゃないよ。

 竹の橋を渡った向こうには、養殖池を手入れしているお爺さんが一人いました。かなりのご高齢であることが分かりました。お腹まで水に浸かって、池の底に溜まった泥をかき出しては、手作業で土手の上に積み上げ、養殖池の土手の嵩上げをしていました。

 お爺さんはインドネシア標準語ではなく、その土地の言葉を話すので、現地のインドネシア人が通訳してくれました。
 世間話になって、ふと、
「さっき橋を渡るとき、落ちてワニに喰われるかと思って怖かった~」
と言うと、
お爺さんは
「人は、あっけなく亡くなるものだよ。それが人生。私は、この土地で生まれて、育って、ここで死んでいく。それだけのこと。幸せだよ。」
と、一本だけになった歯を見せて笑いました。
 その笑顔は、能面の翁、そのものでした。

お爺さんの言葉は私の心に沁み込み、
無意識の深い所に溜まっていた歪を、一気に解放して、
胸の中をかき乱すように、
大きな波が何度も何度も打ち寄せてきました。

 今の私は、「死にたくない」と、生にしがみついているけれど、「幸せだった」と、手放せる時がくるだろうかと、帰りの車の中で考え続けました。

 きっとこのままだと、異国の地で倒れ、異国の土になるかもしれない。
 
 ちょうど世界が物騒になりつつあったので、誘拐され、オレンジ色の服を着せられて、動画がyoutubeにアップされることも、十分あり得ることでした。
 そうなっても、政府は救助に動かないことは明らか。救助を考えるどころか、メディアを使って、あること無いこと書かせるんだろうな。私の不注意によるものだったとか、職場の安全規定に背いた行動があったとか。

 更にメディアは、年老いた親をカメラの前に引きずり出し、曲がって小さくなった背中を更に曲げさせ、「娘の不注意、申し訳ございません」と言わせる謝罪会見と言う名の、イジメ動画を公開することも、十分あり得ることでした。

(被害者側に心を寄せるどころか、迷惑者に仕立て上げる様を、ここ最近、何度目にしていることか。同じ社会に住んでいながら、叩かれている被害者の方々に何もできない自分。無力感に怒りさえ感じます。
 最近、世の中に蔓延している自己責任論なんて、政府が都合悪くなった時の責任逃れの常套句じゃないですか。こんな政府のために、私は海外で戦っているのではない。)

 異国の地で事件に巻き込まれた場合でも、自分の使命に納得していれば「幸せだった」と手放せる。でも、現状では、それは夢のまた夢。必ず悔いは残るし、心配は尽きない。

 もっと自分の望みを突き詰めるなら、赤茶けた土や、乾いた砂にこの身を変える事には抵抗を覚えました。いくら好きな外国の国や土地であっても、そこは私の愛する土地ではないから。生を手放す時の一つの望み、それは、私の最後は故郷に帰りたいということ。できれば故郷で亡くなりたい。故郷の土に戻って、故郷を見下ろすあの山に還って、眼下に広がる豊かな農地を、キラキラした水田を、ずっと見ていたい。

 先の大戦で、彼の地で亡くなられ、彼の地の赤い土となった、日本兵の方々のことが頭にあったせいか、帰りの飛行機がジャカルタを離陸した時、涙が止まりませんでした。
 私は、インドネシアのあの川を渡って、非日常の何かに触れたのだと、今でも思っています。

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